業績(入口敦志氏作成)
【著書・編著書】
『元禄歌舞伎集』古典文庫、昭和三十五年十一月、祐田善雄との共著
『元禄歌舞伎集ー続ー』古典文庫、昭和三十七年三月、祐田善雄との共著
『歌舞伎評判記集成』岩波書店、昭和四十七年、歌舞伎評判記研究会三十八名との共著
『太宰府天満宮連歌史ー資料と研究Iー』太宰府天満宮、昭和五十五年三月、川添昭二・島津忠夫との共著
『太宰府天満宮連歌史ー資料と研究Ⅱー』太宰府天満宮、昭和五十六年三月、川添昭二・島津忠夫との共著
『白山万句ー資料と研究ー』白山比咩神社、鶴崎裕雄・木越隆三との共著
『太宰府天満宮連歌史ー資料と研究Ⅲー』太宰府天満宮、昭和六十一年三月、川添昭二・島津忠夫との共著
『太宰府天満宮連歌史-資料と研究Ⅳ-』太宰府天満宮、昭和六十二年三月、川添昭二・島津忠夫との共著
『連歌総目録』明治書院、平成九年四月、連歌総目録編纂会会員として共著
『社家文事の地域史』神社史料研究会叢書第四輯、思文閣出版、平成十七年十一月、橋本政宣との共編著
【論文等】
「近松研究文献目録」『国文学解釈と鑑賞』昭和三十二年一月
「近松研究文献目録(二)ー作品研究各論ノ部ー」『近世文芸資料と考証』Ⅰ、昭和三十七年二月
「月岑稿本増補浮世絵類考(海外資料紹介)」『近世文芸資料と考証』Ⅱ、昭和三十八年二月、板坂元との共著
「月岑稿本増補浮世絵類考(承前)」『近世文芸資料と考証』Ⅲ、昭和三十九年二月
「福城松連歌ー近世太宰府天満宮連歌史・序説ー」『近世文芸資料と考証』Ⅳ、昭和四十年二月
「筥崎宮連歌(上)ー宗因自筆百韻「手向には」ー」『語文研究』十九、昭和四十年二月
「近松レファレンスー研究文献分類目録ー」『国文学解釈と鑑賞』三十ー三、昭和四十年三月
「黒田如水の連歌」『近世文芸資料と考証』Ⅴ、昭和四十一年二月
「大御神忌と連歌附連歌屋考(一)ー近世太宰府天満宮連歌史・そのニー」『有明工業高専紀要』一、昭和四十一年三月
「木山紹宅伝稿ー太宰府天満宮連歌屋考(上)ー」『有明工業高専紀要』二、昭和四十二年三月
「大鳥居信岩・信助伝稿 附・上座坊実右についてー太宰府天満宮連歌史・その五」『有明工業高専紀要』三、昭和四十二年十二月
「北野社古記録(文学・芸能記事)抄(一)」『有明工業高専紀要』四、昭和四十三年十二月
「翻刻・素丹発句ー肥後連歌史のうち・桜井素丹伝資料(一)」『有明工業高専紀要』四、昭和四十三年十二月
「北野の文子に関するノートー附・近世初期北野社頭の諸芸能ー」『近世文芸資料と考証』班、昭和四十四年二月
「北野社古記録(文学・芸能記事)抄(二)」『有明工業高専紀要』六、昭和四十五年十月
「大鳥居信兼伝資料ー太宰府天満宮連歌史・その六」『有明工業高専紀要』六、昭和四十五年十月
「学界展望・近世」『解釈と鑑賞』四百四十五、昭和四十六年一月
「御霊会史料集(一)ー北野社古記録(文学・芸能記事)抄(三)」『有明工業高専紀要』七、昭和四十六年三月
「松梅院禅予日記抄ー北野社古記録(文学・芸能記事)抄(五)」『有明工業高専紀要』八、昭和四十六年十二月
「翻刻・松梅院禅興日記(弘治二年・同三年)ーいわゆる「北野連歌師」について・資料編(一)ー」『近世文芸資料と考証』Ⅶ、昭和四十七年二月
「いわゆる「北野連歌師」について・資料編(二)ー北野社古記録(文学・芸能記事)抄(六)」『有明工業高専紀要』九、昭和四十八年一月
「宗祇・兼載伝小見」『近世文学作家と作品(中村幸彦博士還暦記念論文集)』中央公論社、昭和四十八年一月
「北野学堂連歌史資料集(貞享年間)能順伝資料集・その一」『近世文芸資料と考証』双、昭和四十九年二月
「能順伝資料・その二(預坊時代・前)」『有明工業高専紀要』十一、昭和五十年一月
「高専教育関係研究文献目録ー1ー」『有明工業高専紀要』十一、昭和五十年一月
「寛永期黒田忠之をめぐる連歌壇と宰府・ノート」『菅原道真と太宰府天満宮』吉川弘文館、昭和五十年三月
「能順伝資料・その三(預坊時代・後)」『有明工業高専紀要』十二、昭和五十一年一月
「高専教育関係文献目録12ー」『有明工業高専紀要』十二、昭和五十一年一月
「高専教育関係研究文献目録ー外編・1ー高専紀要に見る環境研究・災害研究」『有明工業高専紀要』十二、昭和五十一年一月
「長興・立圃俳譜資料」『語文研究』四十二、昭和五十一年十二月
「秋月郷土館「黒田文庫」報告」『語文研究』四十二、昭和五十一年十二月、今井源衛・中野三敏との共著
「高専教育関係研究文献目録ー3-」『有明工業高専紀要』、昭和五十二年三月、轟一郎との共著
「高専教育関係研究文献目録ー外編・2ー高専紀要に見る環境研究・災害研究」『有明工業高専紀要』、昭和五十二年三月、轟一郎との共著
「宗因点「延宝五年仲秋北野三吟連歌」能順伝資料・その四」『近世文芸資料と考証』X、昭和五十三年二月
「庄内俳壇史 藁草」『酒田市立光丘文庫俳書解題』明治書院、昭和五十八年一月
「加能連歌壇史藁草・その二(前)ー能順伝資料その五ー」『国文学研究資料館紀要』十一、昭和六十年三月
「能順時代人の連歌史観・参考資料」『連歌研究の展開』勉誠社、昭和六十年八月
「能順伝資料・その七 翻刻・聯玉集(乾・坤)1附・能順交遊人名索引(稿)」『国文学研究資料館紀要』十二、昭和六十一年三月
「加能連歌壇史藁草・その二ー能順伝資料その八ー」『国文学研究資料館紀要』十三、昭和六十二年三月
「一九八九年の近世演劇研究」『近松研究所紀要』一、平成二年六月、近藤瑞男・阪口弘之・武井協三・原道生との座談
「一九九二年近世演劇研究の話題と展望」『近松研究所紀要』四、平成五年七月、赤間亮・秋本鈴史・大橋正叔・武井協三・土田衛・鳥越文蔵・松崎仁・時松孝文・水田かや乃との座談
「報告・近松研究所の5年」『芸能史研究』百二十四、平成六年一月
「祈祷連歌のことども」『国語と国文学』七十一ー五、平成六年五月
「吉永孝雄旧蔵 五世竹本弥太夫・木谷蓬吟関係資料等目録」『近松研究所紀要』八・九、平成十一年三月
「明治初年大阪義太夫界の基盤瞥見ーある素義コオディネイタの二年半ー」『近松の三百年』和泉書院、平成十一年六月
「《生前のお通夜》より『資料と考証』発刊まで(追悼 白石悌三先生)」『雅俗』七、平成十二年一月
「棚町知彌氏にきくー占領下の福岡博多を中心とする、演劇検閲と地方演劇の状況」『歌舞伎研究と批評』二十五、平成十二年六月、宮田繁幸・岩井眞實・永井美和子による聞書
「「末吉文書」にて(模細工)せる近世初期上方遊俳の横貌ー道節・宗久・宗静の三入をめぐって」『末吉家史料の目録作成と公開および同家史料の綜合的研究』平成十四年二月
「昭和二十三年、大板井で編集された演劇雑誌『リドウ』のことども」『背に廻った未来小郡市制30周年野田宇太郎文学資料館15周年記念誌』平成十四年十二月、井上洋子・長野秀樹・入口敦志による聞書
「棚町知彌氏に福岡検閲局時代を聞く」『平和文化研究』二十七、平成十七年、横手一彦による聞書
「前田綱紀と加賀藩の能ー前田綱紀書簡抄ー」『演劇センター紀要』七、平成十八年一月、竹本幹夫・入口敦志との共著
「棚町知彌氏に福岡検閲局時代を聞くーそのニー」『敍説Ⅱ』十、平成十八年一月、横手一彦による聞書
「日本の敗戦期と敗戦後に生きるー豊島猛、山地久造、棚町知彌の三氏に聞く」『平和文化研究』二十八、平成十八年、横手一彦による聞書
「『九州地区劇団 占領期GHQ検閲台本 目録』ー西日本自立演劇史考ー」『演劇研究』二十九、平成十八年三月
「前田綱紀時代の加賀藩資料に見える能楽」『演劇センター紀要』九、平成十九年一月、入口敦志・竹本幹夫・江口文恵・佐藤和道・青柳有利子との共著
「前田綱紀時代の加賀藩資料に見る能楽追考ー『元禄雑記』補遺ー」『演劇映像学2007』第三集、平成十九年三月、江口文恵・佐藤和道・青柳有利子・入口敦志・竹本幹夫との共著
「GHQ演劇検閲のころー一九四〇年代文学研究の基底を探ってー」『演劇研究』三十一、平成十九年三月
「1940年代文学研究の基底ー『迷路』を座標軸としてたどる能楽界の戦中期ー」『手紙と日記ー対話する私/私との対話ー』第31回国際日本文学研究集会会議録、平成二十年三月
「能楽界の戦中期-一九四〇年代の基底を尋ねてー」『演劇研究』三十二、平成二十年三月
「終戦の日まで五年/終戦の日より五年ー一九四〇年代の演劇界情報・鶏肋ー」『演劇研究』三十三、平成二十一年三月
「『葛巻昌興日記』所引能楽記事稿ー『元禄雑記』補遺ー」『演劇映像学2008』第三集、平成二十一年三月、江口文恵・佐藤和道・青柳有利子・柳瀬千穂・入口敦志・竹本幹夫との共著
「『葛巻昌興日記』所引能楽関係記事稿(二)」『演劇映像学2010』第四集、平成二十三年三月、青柳有利子・江口文恵・中尾薫・柳瀬千穂・入口敦志・竹本幹夫との共著
2016年11月1日火曜日
略歴
略歴
大正十四年八月三十一日、福岡県に生まれる。
昭和十九年九月三十日、成蹊高等学校高等科文科甲類卒業。
昭和十九年十月一日、北海道帝国大学理学部数学科入学。
昭和十九年十二月一日、入営のため休学。
昭和二十一年三月十九日、米国陸軍第三地区民間検閲局翻訳勤務(演劇担当主任)
昭和二十四年十一月一日、同局閉鎖により退職。
昭和二十五年一月、北海道帝国大学退学。
昭和二十五年四月一日、九州大学文学部国語国文学科入学。
昭和二十八年三月三十一日、同、卒業。
昭和二十八年四月一日、九州大学大学院(旧制)文学研究科入学。
昭和三十年三月三十一日、同、修了。
昭和三十年四月一日、福岡市立博多工業高等学校教諭。
昭和三十八年四月一日、有明工業高等専門学校助教授。
昭和四十二年四月一日、同、教授。
昭和四十八年九月、文部省在外研究員として連合王国・フランス・スイス・オランダ・アメリカ合衆国へ出張(二ヶ月)。
昭和五十一年四月一日、山口大学教養部教授。
昭和五十三年四月一日、長岡技術科学大学工学部教授、計画経営系長。
昭和五十三年七月一日、同、附属図書館長(併任)。
昭和五十六年四月一日、国文学研究資料館教授。
昭和五十九年二月十五日、長岡技術科学大学名誉教授。
平成元年四月一日、園田学園女子大学近松研究所所長。
平成元年七月十日、国文学研究資料館名誉教授。
平成二年四月一日、園田学園女子大学情報教育センター所長(併任)。
平成十一年三月三十一日、園田学園女子大学退職。
平成十一年四月十五日、園田学園女子大学名誉教授。
平成二十二年七月二十日、逝去。
同日付で、従四位下に叙せられ、瑞寳小綬章を授与される。
平成二十三年九月、国立女性教育会館に女性史関連の旧蔵書約千五
百冊が「棚町知彌コレクションー自署名本にみる昭和の女た
ちー」という名称で配架され、サービスに供される。
大正十四年八月三十一日、福岡県に生まれる。
昭和十九年九月三十日、成蹊高等学校高等科文科甲類卒業。
昭和十九年十月一日、北海道帝国大学理学部数学科入学。
昭和十九年十二月一日、入営のため休学。
昭和二十一年三月十九日、米国陸軍第三地区民間検閲局翻訳勤務(演劇担当主任)
昭和二十四年十一月一日、同局閉鎖により退職。
昭和二十五年一月、北海道帝国大学退学。
昭和二十五年四月一日、九州大学文学部国語国文学科入学。
昭和二十八年三月三十一日、同、卒業。
昭和二十八年四月一日、九州大学大学院(旧制)文学研究科入学。
昭和三十年三月三十一日、同、修了。
昭和三十年四月一日、福岡市立博多工業高等学校教諭。
昭和三十八年四月一日、有明工業高等専門学校助教授。
昭和四十二年四月一日、同、教授。
昭和四十八年九月、文部省在外研究員として連合王国・フランス・スイス・オランダ・アメリカ合衆国へ出張(二ヶ月)。
昭和五十一年四月一日、山口大学教養部教授。
昭和五十三年四月一日、長岡技術科学大学工学部教授、計画経営系長。
昭和五十三年七月一日、同、附属図書館長(併任)。
昭和五十六年四月一日、国文学研究資料館教授。
昭和五十九年二月十五日、長岡技術科学大学名誉教授。
平成元年四月一日、園田学園女子大学近松研究所所長。
平成元年七月十日、国文学研究資料館名誉教授。
平成二年四月一日、園田学園女子大学情報教育センター所長(併任)。
平成十一年三月三十一日、園田学園女子大学退職。
平成十一年四月十五日、園田学園女子大学名誉教授。
平成二十二年七月二十日、逝去。
同日付で、従四位下に叙せられ、瑞寳小綬章を授与される。
平成二十三年九月、国立女性教育会館に女性史関連の旧蔵書約千五
百冊が「棚町知彌コレクションー自署名本にみる昭和の女た
ちー」という名称で配架され、サービスに供される。
2016年10月7日金曜日
2016年10月3日月曜日
棚町丈四郎略歴
棚町丈四郎略歴
1890年11月9日福岡県三井郡味坂村大字八坂八百八捨九番地に佐々木正蔵四男として生まれる。
1985年4月福岡県三井郡味坂村味坂小学校に入学する。
1899年3月同校尋常科四学年を卒業する。
4月福岡県三井郡立石村松崎高等小学校に入学する。
1902年3月同校三学年を修了する。
4月久留米市明善中学校に入学する。
1907年3月同校を卒業する。
9月第五高等学校に入学する。
1910年6月同校第一部英法を卒業する。
9月東京帝国大学法科大学法律学科に入学する。
1913年1月福岡県三井郡小郡村大字大板井七捨番地棚町五十吉の婿養子となり長女ユキと結婚する。
1914年7月10日東京帝国大学法科大学法律学科(英法兼修)を卒業する。
8月13日司法官試補を命じられる。
東京地方裁判所及び同検事局並びに東京区裁判所及び同検事局において事務修習を命じられる。
11月20日東京区裁判所検事の代理を命じられる。
1915年3月!1日東京区裁判所検事の代理を免じられる。
1916年3月13日検事に任じられ、高等官7等及び従7位に叙せられ、東京地方裁判所検事局兼東京区裁判所検事局勤務を命じられる。
8月16日東京区裁判所検事の代理を命じられる。
8月18日大阪地方裁判所検事局兼大阪区裁判所検事局勤務を命じらる。
1916年7月13日大阪地方裁判所検事兼大阪区裁判所検事に補せられる。
1918年5月30日高等官六等に叙せられる。
6月20日看守長任用試験委員を命じられ正七位に叙せられる。
10月5日東京区裁判所検事兼東京地方裁判所検事に補せられる。
1919年10月20日高等官五等に叙せられる。
12月10日従六位に叙せられる。
1923年12月27日「摂政宮殿下帝国議会開院式二行啓ノ途次虎ノ門跡二於テ難波大助殿下二対シ奉リ杖銃ヲ発射シタルモ殿下御無事二渉ラセラル」(『司法沿革誌』)
1924年1月18日司法官試補指導掛を命じられる。
2月2日高等官四等に叙せられる。
3月29日正六位に叙せられる。
8月4日司法官試補指導掛を免じられる。
1925年10月東京区裁判所上席検事を命じられる。(思想専門だけではなく東京区検の全般にわたり責任を持つ)
1926年3月25日「朴烈事準植及金子文子二対シ大審院二於テ各死刑ノ判決アリ」(『司法沿革誌』)10月13日「朴烈事準植及金子文子ノ怪写真事件二付司法当局内容ヲ発表ス」(『司法沿革誌』)
1927年9月6日勲六等に叙せられ瑞宝章下賜。
9月13日高等官三等に叙せられる。
10月15日従五位に叙せられる。
1929年8月1日東京控訴院検事に補せられる(思想検事として)。11月16日大礼記念章を拝授する。
1931年9月8日勲五等に叙せられ瑞宝章下賜。
9月28日東京地方裁判所検事(次席)に補せられる(検事正の補佐として全般にわたる役目)。
1932年1月8日「天皇陛下陸軍始観兵式ヨリ還幸ノ途次一鮮人歯簿二爆弾ヲ投シメルモ御粁車其他二御異常ナク陛下ニハ無事宮城二還御アラセラル」(『司法沿革誌』)
1932年1月9日大審院検事事務取扱を命じられる。
11月1日正五位に叙せられる。
1933年3月23日欧米各国への出張を命じられる。
3月29日外務省の事務嘱託となる。
1934年2月6日欧米出張より帰朝する。
2月16日大審院検事に補せられる。(「思想実務家会同」に出席しており思想検事としての役目)
8月11日高等官二等に叙せられる。
9月8U勲四等に叙せられ瑞宝章下賜。
1936年6月27日長崎地方裁判所検事正に補せられる。
1937年11月15日長崎県方面事業委員会委員の嘱託となる。
11月15日従四位に叙せられる。
1937年12月21日名占屋地方裁判所検事正に補せられる。
1938年9月7日勲三等に叙せられ瑞宝章下賜。
12月21日死去する。同日正四位に叙せられる。
12月28日特旨を以て位一級追陞せられる。
1939年12月24日名古屋市泰安殿における葬儀の直轄上司は名古屋控訴院宮城長五郎検事長(泉二検事総長・塩野季彦司法大臣の時代)。
1940年12月20日ごろ満2年の吉祥寺自宅における三回忌法事に宮城司法大臣が来訪。
(岸本義広編集発行『棚町丈四郎先生遺稿集』1941年12月発行・非売品1~5頁参照)
1985年4月福岡県三井郡味坂村味坂小学校に入学する。
1899年3月同校尋常科四学年を卒業する。
4月福岡県三井郡立石村松崎高等小学校に入学する。
1902年3月同校三学年を修了する。
4月久留米市明善中学校に入学する。
1907年3月同校を卒業する。
9月第五高等学校に入学する。
1910年6月同校第一部英法を卒業する。
9月東京帝国大学法科大学法律学科に入学する。
1913年1月福岡県三井郡小郡村大字大板井七捨番地棚町五十吉の婿養子となり長女ユキと結婚する。
1914年7月10日東京帝国大学法科大学法律学科(英法兼修)を卒業する。
8月13日司法官試補を命じられる。
東京地方裁判所及び同検事局並びに東京区裁判所及び同検事局において事務修習を命じられる。
11月20日東京区裁判所検事の代理を命じられる。
1915年3月!1日東京区裁判所検事の代理を免じられる。
1916年3月13日検事に任じられ、高等官7等及び従7位に叙せられ、東京地方裁判所検事局兼東京区裁判所検事局勤務を命じられる。
8月16日東京区裁判所検事の代理を命じられる。
8月18日大阪地方裁判所検事局兼大阪区裁判所検事局勤務を命じらる。
1916年7月13日大阪地方裁判所検事兼大阪区裁判所検事に補せられる。
1918年5月30日高等官六等に叙せられる。
6月20日看守長任用試験委員を命じられ正七位に叙せられる。
10月5日東京区裁判所検事兼東京地方裁判所検事に補せられる。
1919年10月20日高等官五等に叙せられる。
12月10日従六位に叙せられる。
1923年12月27日「摂政宮殿下帝国議会開院式二行啓ノ途次虎ノ門跡二於テ難波大助殿下二対シ奉リ杖銃ヲ発射シタルモ殿下御無事二渉ラセラル」(『司法沿革誌』)
1924年1月18日司法官試補指導掛を命じられる。
2月2日高等官四等に叙せられる。
3月29日正六位に叙せられる。
8月4日司法官試補指導掛を免じられる。
1925年10月東京区裁判所上席検事を命じられる。(思想専門だけではなく東京区検の全般にわたり責任を持つ)
1926年3月25日「朴烈事準植及金子文子二対シ大審院二於テ各死刑ノ判決アリ」(『司法沿革誌』)10月13日「朴烈事準植及金子文子ノ怪写真事件二付司法当局内容ヲ発表ス」(『司法沿革誌』)
1927年9月6日勲六等に叙せられ瑞宝章下賜。
9月13日高等官三等に叙せられる。
10月15日従五位に叙せられる。
1929年8月1日東京控訴院検事に補せられる(思想検事として)。11月16日大礼記念章を拝授する。
1931年9月8日勲五等に叙せられ瑞宝章下賜。
9月28日東京地方裁判所検事(次席)に補せられる(検事正の補佐として全般にわたる役目)。
1932年1月8日「天皇陛下陸軍始観兵式ヨリ還幸ノ途次一鮮人歯簿二爆弾ヲ投シメルモ御粁車其他二御異常ナク陛下ニハ無事宮城二還御アラセラル」(『司法沿革誌』)
1932年1月9日大審院検事事務取扱を命じられる。
11月1日正五位に叙せられる。
1933年3月23日欧米各国への出張を命じられる。
3月29日外務省の事務嘱託となる。
1934年2月6日欧米出張より帰朝する。
2月16日大審院検事に補せられる。(「思想実務家会同」に出席しており思想検事としての役目)
8月11日高等官二等に叙せられる。
9月8U勲四等に叙せられ瑞宝章下賜。
1936年6月27日長崎地方裁判所検事正に補せられる。
1937年11月15日長崎県方面事業委員会委員の嘱託となる。
11月15日従四位に叙せられる。
1937年12月21日名占屋地方裁判所検事正に補せられる。
1938年9月7日勲三等に叙せられ瑞宝章下賜。
12月21日死去する。同日正四位に叙せられる。
12月28日特旨を以て位一級追陞せられる。
1939年12月24日名古屋市泰安殿における葬儀の直轄上司は名古屋控訴院宮城長五郎検事長(泉二検事総長・塩野季彦司法大臣の時代)。
1940年12月20日ごろ満2年の吉祥寺自宅における三回忌法事に宮城司法大臣が来訪。
(岸本義広編集発行『棚町丈四郎先生遺稿集』1941年12月発行・非売品1~5頁参照)
2016年9月9日金曜日
旧制成蹊高校1943年送辞9月22日
戦局の悪化にともない成蹊高校の教育期間が3年から2年半に短縮され、9月22日に3年生の卒業式があった。生徒総代として棚町は式辞を読んだ。手元に残していたそこには、難解な語句をたくさん使われている。読み飛ばしてもらってもいっこうにかまわないが、当時の皇国少年の心情がよくわかるので、引用しておく。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「輦轂(れんこく)の下西つ方、武蔵野の自然に抱かれたる大なる学び家成蹊に、南遥かに芙蓉の霊峰を仰ぎつゝ、北日光の空高く聳える筑波と共に向上を競いつゝ、七年三年の青春の日を文武の道に勤しまれし兄等には、今や高校生活最後の思ひ出たるべき大学入試を、黒金溶くる三伏の候に首尾よく突破せられて、初秋の今日、魂の故郷成蹊を去りて、其の各々志される部門々々に門出せられんとす。日本男児が活躍の舞台は至つて極メテ広大となり、兄等が方寸既に覇図成りて、雲に駕したる蚊龍の、行手の途は難くとも、斗牛を抜きて行かんの意気あらん事と拝察す。吾等後輩一同、衷心より兄等が前途に幸多かれと祈ると共に、聊(いささか)か成蹊在校生としての覚悟を述べ、以て兄等を送るの辞となさん。
禍津日の雲湧き立ち上り、我が神洲を閉さんとす。八紘を掩(おお)ひて宇と為むの大皇戦既に二歳、緒戦の痛手より立直りたる敵米英は、全戦線に亘りて盛に反攻を企て、更に我皇土の空を窺ひ、其の戦意極めて熾烈なるものあり。欧洲の戦局寸時の油断も許さず。支那大陸戦線猶未だ前途遼遠なり。一昨日の大西中将(大西瀧治郎、神風特別攻撃隊の創始者)の講演に聞く。今や吾等が祖国、危急存亡の岐路に立てり。されど、否、さればこそ、吾等神洲に生を享くる者、御民吾れの感慨、今日に過ぐるものあらんや。彼我交戦国の学生、多くは銃を執りてありと。敵米の学生飛行士、その精神敵ながら殊勝なりと聞く。吾等日本の高等学生、既に学年短縮等の戦時措置を受けたりとは雖(いえど)も、他国学生に比し如何に恵まれ居るかを思ふべし。吾等にして、此の恩恵に狎(なれ)るゝ事あらんか、そは国家の恩を仇にするものなり。
本日兄等の御卒業を祝するを得。此れ全く御稜威の然らしむるところと、忠勇なる皇軍将士の必死の奮闘の賜にして、深く感謝に耐へざる次第なり。大東亜建設の人柱となりて散りにし、吾等が同胞其数幾万ぞや。思ひ此処に至る時、吾等が日常生活に対する自責の念、寔(まこと)に切なるものあり。
今日兄等を送る式典あり。明秋再び全校生徒打揃ひて卒業式を挙ぐる事ありと誰か断じ得ん。
吾等銃を執りて戦場に立つの日、明日に来らんとも計られず。来るも当然なり。来らざるに狎(なれ)るゝ事勿れ。吾等が担ふべきは次代の光栄のみに非ず。明日にも銃を執らんの覚悟なくして充実せる高校生活有り得べからず。充実せる高校生活なくして明日にも銃を執らんの覚悟起り得べからず。明日銃とりて立たんの覚悟は今日の真の高校生活よりのみ出ず。
真の高校生活とは如何。文武一如の生活なり。夫れ文武は鳥の両翼の如し。文を半し武を半し合して一となすは文武一如に非ず。文のみにて全一なり。武のみにて全一なり。合して全一なり。片翼の航空機能く半ばの務めをなすや。文武を連ねて一聯とするものは何ぞ。必死の鍛錬なり。透徹せる国体観時局観なり。今や必死の時にあり。生まれて必死の世に遭ふはよきかな、人その鍛錬によりて死に勝ち、人その極限の日常によりてまことに生く。空虚なる批判を止めよ、そは破壊にすぎず、未だ高校生に残りたる世界主義、感傷主義よ。去れ。そは総て閑日月なり。悠久の大義に生くるより大なる事何かあらん。
吾等成蹊六百健児の嚮(むか)ふ所炳乎たり。忠孝文武、貫くに一の護皇精神を以てす。臣道を尽して報命の誠を致す。此れ成蹊精神に非ずや。
兄等最上級生の時に於て創りし中隊を主とする新修練制度、今や創草の時既に過ぎて漸く本格的活動に入らんとす。防空対策も一応の整ひを見たり。今や敵の来らんとすると待つのみ。要は実践にあり。
鳴呼、空翔る英霊、孤島守る忠魂の吾等を招く声聞ゆ。
吾等六百成蹊健児、礼調の精神を以て団結を固くし、進みて国難に赴かん。終りに臨み、国家の期待の兄等に掛かる所如何に大なるかを思ひ、兄等の御健勝御自愛を切に祈ると共に、兄等が母校を屡々訪れられて、私共後輩を御指導給はらんことを願ふ。
昭和十八年九月二十二日 在校生代表
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「輦轂(れんこく)の下西つ方、武蔵野の自然に抱かれたる大なる学び家成蹊に、南遥かに芙蓉の霊峰を仰ぎつゝ、北日光の空高く聳える筑波と共に向上を競いつゝ、七年三年の青春の日を文武の道に勤しまれし兄等には、今や高校生活最後の思ひ出たるべき大学入試を、黒金溶くる三伏の候に首尾よく突破せられて、初秋の今日、魂の故郷成蹊を去りて、其の各々志される部門々々に門出せられんとす。日本男児が活躍の舞台は至つて極メテ広大となり、兄等が方寸既に覇図成りて、雲に駕したる蚊龍の、行手の途は難くとも、斗牛を抜きて行かんの意気あらん事と拝察す。吾等後輩一同、衷心より兄等が前途に幸多かれと祈ると共に、聊(いささか)か成蹊在校生としての覚悟を述べ、以て兄等を送るの辞となさん。
禍津日の雲湧き立ち上り、我が神洲を閉さんとす。八紘を掩(おお)ひて宇と為むの大皇戦既に二歳、緒戦の痛手より立直りたる敵米英は、全戦線に亘りて盛に反攻を企て、更に我皇土の空を窺ひ、其の戦意極めて熾烈なるものあり。欧洲の戦局寸時の油断も許さず。支那大陸戦線猶未だ前途遼遠なり。一昨日の大西中将(大西瀧治郎、神風特別攻撃隊の創始者)の講演に聞く。今や吾等が祖国、危急存亡の岐路に立てり。されど、否、さればこそ、吾等神洲に生を享くる者、御民吾れの感慨、今日に過ぐるものあらんや。彼我交戦国の学生、多くは銃を執りてありと。敵米の学生飛行士、その精神敵ながら殊勝なりと聞く。吾等日本の高等学生、既に学年短縮等の戦時措置を受けたりとは雖(いえど)も、他国学生に比し如何に恵まれ居るかを思ふべし。吾等にして、此の恩恵に狎(なれ)るゝ事あらんか、そは国家の恩を仇にするものなり。
本日兄等の御卒業を祝するを得。此れ全く御稜威の然らしむるところと、忠勇なる皇軍将士の必死の奮闘の賜にして、深く感謝に耐へざる次第なり。大東亜建設の人柱となりて散りにし、吾等が同胞其数幾万ぞや。思ひ此処に至る時、吾等が日常生活に対する自責の念、寔(まこと)に切なるものあり。
今日兄等を送る式典あり。明秋再び全校生徒打揃ひて卒業式を挙ぐる事ありと誰か断じ得ん。
吾等銃を執りて戦場に立つの日、明日に来らんとも計られず。来るも当然なり。来らざるに狎(なれ)るゝ事勿れ。吾等が担ふべきは次代の光栄のみに非ず。明日にも銃を執らんの覚悟なくして充実せる高校生活有り得べからず。充実せる高校生活なくして明日にも銃を執らんの覚悟起り得べからず。明日銃とりて立たんの覚悟は今日の真の高校生活よりのみ出ず。
真の高校生活とは如何。文武一如の生活なり。夫れ文武は鳥の両翼の如し。文を半し武を半し合して一となすは文武一如に非ず。文のみにて全一なり。武のみにて全一なり。合して全一なり。片翼の航空機能く半ばの務めをなすや。文武を連ねて一聯とするものは何ぞ。必死の鍛錬なり。透徹せる国体観時局観なり。今や必死の時にあり。生まれて必死の世に遭ふはよきかな、人その鍛錬によりて死に勝ち、人その極限の日常によりてまことに生く。空虚なる批判を止めよ、そは破壊にすぎず、未だ高校生に残りたる世界主義、感傷主義よ。去れ。そは総て閑日月なり。悠久の大義に生くるより大なる事何かあらん。
吾等成蹊六百健児の嚮(むか)ふ所炳乎たり。忠孝文武、貫くに一の護皇精神を以てす。臣道を尽して報命の誠を致す。此れ成蹊精神に非ずや。
兄等最上級生の時に於て創りし中隊を主とする新修練制度、今や創草の時既に過ぎて漸く本格的活動に入らんとす。防空対策も一応の整ひを見たり。今や敵の来らんとすると待つのみ。要は実践にあり。
鳴呼、空翔る英霊、孤島守る忠魂の吾等を招く声聞ゆ。
吾等六百成蹊健児、礼調の精神を以て団結を固くし、進みて国難に赴かん。終りに臨み、国家の期待の兄等に掛かる所如何に大なるかを思ひ、兄等の御健勝御自愛を切に祈ると共に、兄等が母校を屡々訪れられて、私共後輩を御指導給はらんことを願ふ。
昭和十八年九月二十二日 在校生代表
出陣学徒への「壮行之辞」1943年11月18日
出陣学徒への「壮行之辞」1943年11月18日
「ブーゲンビルの重なる大戦果を聞く此の佳き日
勇躍壮途に赴かれる諸兄に対し何等加ふる詞を認めません 私共 或は未だ適齢に達せざる為 或は又特に命ぜられて 学園に留る者は斯かる緊迫せる時局下に於てすら 尚 学窓に残されたといふ国家の意に思ひを致す時、其の責任の極めて大なるを痛感する次第であります。
口にのみ学校即戦場を唱へつゝ 日々の実践に於て怠る事あるが如きは絶対に許されぬのであります。私共 唯今諸兄を送るの感激を以て 召されるの日まで学徒としての本分を全ふせむ事を諸兄に誓ひます。
学校即戦場の真義に徹する時 征く者も送る者も無いと思ひます。
杉本五郎中佐の絶筆に曰く
汝我を見んと要せば尊皇に生きよ 尊皇精神のある処常に我在りと大義に生くる事により 私共は諸兄と常に共にあるを得 又然あらねばならぬのであります。
諸兄につゞく成蹊健児六百のある事を念頭に置かれて 御健闘あらん事を祈つて止みません 橘曙覧の歌
天皇の勅にそむく奴等の首引き抜て八つもてかへれ
昭和十八年十一月十八日
成蹊高等学校在学生総代 棚町知彌」
「ブーゲンビルの重なる大戦果を聞く此の佳き日
勇躍壮途に赴かれる諸兄に対し何等加ふる詞を認めません 私共 或は未だ適齢に達せざる為 或は又特に命ぜられて 学園に留る者は斯かる緊迫せる時局下に於てすら 尚 学窓に残されたといふ国家の意に思ひを致す時、其の責任の極めて大なるを痛感する次第であります。
口にのみ学校即戦場を唱へつゝ 日々の実践に於て怠る事あるが如きは絶対に許されぬのであります。私共 唯今諸兄を送るの感激を以て 召されるの日まで学徒としての本分を全ふせむ事を諸兄に誓ひます。
学校即戦場の真義に徹する時 征く者も送る者も無いと思ひます。
杉本五郎中佐の絶筆に曰く
汝我を見んと要せば尊皇に生きよ 尊皇精神のある処常に我在りと大義に生くる事により 私共は諸兄と常に共にあるを得 又然あらねばならぬのであります。
諸兄につゞく成蹊健児六百のある事を念頭に置かれて 御健闘あらん事を祈つて止みません 橘曙覧の歌
天皇の勅にそむく奴等の首引き抜て八つもてかへれ
昭和十八年十一月十八日
成蹊高等学校在学生総代 棚町知彌」
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